投稿日:2023-09-09 Sat
なんと四年ぶりのブログの更新となります。その期間、なにがあったか、何をしていたのか、なぜ更新できなかったのか、といろいろな訳を考えていますが、とにかく忙しい毎日であったことは間違いなく。そしてコロナ禍という実際は何だったのかよくわからない期間が3年ほど続いていたのも少し影響があったのかもしれません。
ただコロナが猛威を振るっていたあいだでも、別に庭仕事をストップしたわけでもなく、むしろ仕事はより一層忙しくなっていたようです。というのも、我々の日常は外仕事です。手入れの仕事に際しては、お施主様と庭の中で少し打ち合わせをする以外は、ほかの誰とも仕事で密に話をすることはないのです。そして、コロナ禍において、お客様ご自身も自宅で過ごされる時間が増えたため、ご自身のお庭をゆっくりじっくり眺められる機会が増えたのかもしれません。よく見れば、あれこれとよく見える。。。もっとこうしたらよくなるかも、という思いが具体的に浮かんでくる。
よく、コロナ禍は我々の生活(や生活哲学)を見直す機会を与えてくれたのではないか、という論説を見ましたが、まさに生活の中の庭というものの存在やありがたさについても、あらためて気づいたり、もう一度見直したりする機会を与えてくれたのかもしれません。
私にとっても、本当に庭を愛されるお客様の存在というのがこの期間でより一層浮彫にされて、そのようなお客様がいらっしゃることが、我々庭師を支えてくださっているのだということに気づかされ、お客様への感謝の気持ちが強くなったと確信できます。
さてつい先日のことですが、私が作らせて頂いたお庭に据えた水鉢が、雨の降り方を知るちょうどいい器なんです、とおっしゃってくださるお客様がありました。その水鉢に溜まる水の増え方、減り方、透明感、濁り方などなどを見ると、ここ数日どの程度の雨が降ったか、降っていないか、どのような激しさで雨が降ったかなど、よくわかる、とおっしゃるのです。

その水鉢
なるほど!!です。このお客様の発言に、私は感動すらおぼえました。
なぜそれほどまで感動を?
15年前にイタリア語で上梓したあの本『山川草木』の中の第3章「草」の部で、日本庭園を造ってきた五つの戦略として論じた中の一つ、「もてなし」の戦略はまさに日本庭園のこのような態を述べたつもりです。風鐸に風があたり、音を立てる、訪れとは音ずれであり、見えていなかった自然の恩恵である何かが訪れて、見えるようになる、聞こえるようになる。庭はそれを可能にする器である、という考えです。音、雨、光、湿気、風、雪、霜などなど、それらの変化が、庭があることによって我々の生活の身近なところで、本当に見えるものとなる。自然をもてなすのが庭のひとつの戦略なんだ、という考えです。
ゆえに、この水鉢によって雨の降り方がわかる、とお客様がおっしゃるのを聞いて、私は感動したのです。
ああ、これだ、と。ほんとうにうれしくてしようがありませんでした。
このようなお客様とのご縁をいただいたことがまた本当にうれしくありがたいことです。
このような気づきを、より一層大事にして、今後も庭師としての仕事に精進していきたいと思います。
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投稿日:2019-12-18 Wed
フランス人の庭師オリヴィエ君が来日、はるばる私の住む奈良県の大宇陀まで訪ねてきてくれました。イタリアのモンツァの学校の日本庭園講義に聴講しに来ていた人です。ちょうどそのころ茶庭の手入れを予定していたので、一日だけではありましたが、作業を手伝ってもらいました。モンツァのときは、こちらもあまり時間にも気持ちにも余裕がなく、落ち着いて話をすることができませんでしたが、今回は作業の休憩中にも、また共にした夕食の時間にも、いろいろな話を楽しむことができました。もちろん庭のこと、フランスでの日本庭園の紹介や作庭のこと、日本文化のこと、世界の環境問題のこと、といろいろです。彼は千葉の庭師さん三橋一夫氏に師事し、何回も来日、フランスでも日本庭園のワークショップを主催したりなど、日本の庭についてはかなりの通のようです。
今回の私の茶庭の手入れの作業中も、ディテールにしっかり目を配っていろいろと質問してきたり、またディテールだけでなく、全体の構成や雰囲気についても視野に入れ、いってみれば、庭の「森もみるし木もみる」ということをしているようでした。
日本の庭についても、だんだんとこのような眼の肥えた人が世界中にたくさん現れてきて、いよいよ日本庭園も国境がなくなってきたようですね。
と同時に、日本の若い人たちにもっともっと日本の庭の魅力を理解してくれるように、そういう場所と機会を提供していかなくてはいけませんね。もちろん庭だけの問題ではありません。日本の家(建物)あっての日本の庭。つまり、住まい方の問題。
縁あって、只今 大宇陀の重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)にある我が家は改修中。築何年、とは正確に特定できないのですが、古い土壁から寛永通宝がポロリと落ちて出てきたところをみると、やはり遅くとも明治の初めには最初の躯体部分は建てられていたのではないか、と思われます。この家をもって、日本の家あっての日本の庭、というひとつのあり方を模索中です。簡単ではありません。
が、「庭屋一如」に憧れます。日本の伝統的木造建築と伝統的庭、そしてその最たる形、茶室と茶庭、これからも、そのへんを狙っていこうと思っています!

オリヴィエ君と作業した茶庭 外露地を見る

オリヴィエ君と作業した茶庭 内露地を見る
投稿日:2019-10-21 Mon
もう12年も前にイタリアで出版した『山川草木』という本は相変わらず絶版状態が続いていますが、どうやら共著者のベアトリーチェ(パドヴァ在住)によると、今でもまだ「どこで手に入るんだ?」という熱い問い合わせがあるとのこと。ベアトリーチェは方々で講演をして、この本についてイタリア人に紹介しつづけているようです。つい先日もベアトリーチェからメールがあり、今度はボローニャで講演をすると。その主催者はこの本に大変感銘を受け(冷汗。。。)、できればまた別の機会にワークショップなどを企画できたらいいだろう、と話されているようです。
十年ひと昔というようですが、この本をイタリアで出版した当時は、日本の庭が生々しいい写真付きでリアルタイムに海外に紹介されることもそれほど頻繁ではなかったと思います。ソーシャルメディアの普及と日本を訪れる外国人の急増によって、いまでは日本の庭のイメージは外国でもなかり身近な存在になってきたようです。
しかし、そうなった今こそ、我々の本がまた読まれる価値もあるのではないか、と大変僭越ながらそう自負する次第です。というのも、『山川草木』は、きれいな庭のピクチャーブック(画集・写真集)でもありませんし(しかし写真がよろしい、という評価は方々で頂いています!)、日本の庭のハウツー本でもなし、かといって鑑賞ガイドでもなし。日本の庭がどういう観点で自然を映すのか、またそれはどういう考えや思想に基づいているのか、そしてこれからの日本庭園は世界でどう作ることができるか。。。というようなことをかなり大胆に問いかけているつもりです。
最近、海外で日本人の庭師が作庭をすることがますます増えてきているようです。(はい、私自身もいくらか。。)そして外国の方々が自分で日本(風)庭園を作られている例もとてもたくさん見かけます。すべて、ソーシャルメディアのおかげでそれらを日々目にすることができるようになりました。
果たして、50年前、30年前、20年前、と我々の先輩の庭師の先生方が海外で作庭されてきたその数々の庭と比べた時、どうなのか??私たちは日本庭園をつくるということについて、よりいっそうの機会の自由を得たのは間違いないですが、はたして作っているものはその自由を反映しているといえるでしょうか?
刺さるような問いではありますが、今一度そういう目で見てしまわざるを得ません。
「ほんとうにいい庭とはどういう庭か?」という問いがベースにあって、そしてそれを日本の庭の伝統に照らしながら追求する、という態度が必要なのでしょう。日本庭園の研究者ならこの問いや態度は必ずしも当たらないでしょうが、庭をつくる人間なら、やはりそれが大事なように思います。 <==== 自分自身を刺すようです!!! 痛!!
それはそうと、11月上旬に、知り合いのフランス人の庭師さんがこちらに見えるようです。茶庭の手入れでもご一緒してもらいましょう。
投稿日:2019-09-14 Sat
「いつもAさんの御庭がきれいに手入れしてあるのを見て、ぜひうちも一度お願いしたいと思いまして。」というような は こ び で御庭のお手入れのご用命を賜るのはなんとも有り難いことです。今日下見にお邪魔したお客様はそうおっしゃいました。
庭はけっして他人に見せびらかすためのものであるべきではないと思いますが、御庭がきれいに手入れしてあるというのは、持主様にとっても、また近所のかたにとっても、たまたま通りすがる人々にとっても、なにか心が和み、清らかになることがあると信じたいと思います。またそう思い続けることによって、我々庭師の社会への貢献が正当化できましょう。
庭の手入れというのが人と社会に与える影響は小さくないのではないか、そう自負するのですが、そのとき現実問題として必ず関わってくることに、お金のこと、そして 時間のこと、があると思います。
まず、どの程度の時間や手間をかけて庭を手入れするかという問題、つまり、手入れという行為に直接関係する経済の問題。そして、人間の生の時間と庭の生の時間との折り合い、という問題、つまり、ご先祖様~当代の御庭の持ち主~子孫へと至る時間の中で当事者である方が庭をどう生かしどう成熟させ、あるいはまたどう始末するか、というような問題です。
実は個別のお客様の御庭を扱うとき、その問題の特定は千差万別であるべきで、またその解決方についても然り。
庭仕事の技術はもちろん、庭を取り巻く お金と時間 のコーディネーションについてもまことに奥が深過ぎて.。。。まさに試行錯誤でございます。
投稿日:2019-08-15 Thu
お客様へのプレゼンテーションに、手描きのパースっぽい絵を4枚ほど描きました。頭の中でその庭空間にいる自分を想像して、その自分が見るであろう(見たいであろう)庭の雰囲気やこれだ!という庭の構成要素をちょっとドラマチックに表現してみる。。。
「うまいですねぇ」
「いえいえ」
「やっぱりこういう絵を描くのがお好きなんですか?」
「はい、まあ。。。」
私のお見せした絵によって、お客様はこの想像上の庭にご自分で立たれることができた、と、そう思える瞬間でした。
絵については、別にきちんと勉強したわけではありませんが、これまでにすばらしい示唆を与えてくれた人たちが確かに存在します。
一人はアメリカの学校のジム・コーナー先生(←あの、ニューヨークの「スカイライン」。。。でしたっけ、名前は。。。をデザインしたランドスケープデザイナー)。彼は、いきなり授業で我々にニンニクの絵を描かせたのです。ニンニクを見ること、それはまるでニンニクになること、というような芭蕉にも通じそうなメッセージ。冷徹(超客観??)ともいえるような観察眼で、ものに迫る。。。そして彼は、present をするのであって、represent ではないのだ、と教えてくれました。つまり、絵を描くときはものの本質を自分なりに解釈して新たな価値を付け加えるべく前に放り出すのであって、すでに誰か(自分を含めた)が定めたものの概念やものの観方を自分の絵によって代弁するのではない、と。あれれ、難しい話になってしまいました。。。でも、その時の私にはそれがピンときて、納得!と思えましたし、今でもそれは貴重な教えとして残っています。
もう一人は、そのアメリア時代のクラスメートの中国系アメリカ人の女性。天才か!と思える絵のうまさ。すごいと思ったのは、注目してほしいものの描き方は実にエッジが効いてシャープなのに対し、注目をそれたものたちは、絶妙なぼかしでハショッていること。人間はあるひとつのものに釘付けになると他のものはほとんど見えていない。ほんの一瞬のことではあるけれども。でもその見る人の一瞬の脳のはたらきを絵が捉えているのです。だから臨場感というか閃光のごときインパクトがえげつない。。。
もう一人は、スイスのパオロ・ブルギ氏。私の恩師でもある人。彼は、常々、「どう見えるかを描くのではないよ。何を見せたいか、そして何を感じてほしいかを描くのだよ」と言ってくれました。惚れ惚れすることば。デザイナーであるなら、まだ形になっていないものを描いて顧客に説明する段階があるのだから、そのときは、このコトバが実に説得力をもってきます。
などなど、いろいろなひとが絵について教えてくれました。自分の絵などほんとうにたいしたことはないけれど、絵ごころだけは常に持っていないと絵にならない、とは思います。たかが絵、されど絵は深いものがありそうです。
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