投稿日:2019-10-21 Mon
もう12年も前にイタリアで出版した『山川草木』という本は相変わらず絶版状態が続いていますが、どうやら共著者のベアトリーチェ(パドヴァ在住)によると、今でもまだ「どこで手に入るんだ?」という熱い問い合わせがあるとのこと。ベアトリーチェは方々で講演をして、この本についてイタリア人に紹介しつづけているようです。つい先日もベアトリーチェからメールがあり、今度はボローニャで講演をすると。その主催者はこの本に大変感銘を受け(冷汗。。。)、できればまた別の機会にワークショップなどを企画できたらいいだろう、と話されているようです。
十年ひと昔というようですが、この本をイタリアで出版した当時は、日本の庭が生々しいい写真付きでリアルタイムに海外に紹介されることもそれほど頻繁ではなかったと思います。ソーシャルメディアの普及と日本を訪れる外国人の急増によって、いまでは日本の庭のイメージは外国でもなかり身近な存在になってきたようです。
しかし、そうなった今こそ、我々の本がまた読まれる価値もあるのではないか、と大変僭越ながらそう自負する次第です。というのも、『山川草木』は、きれいな庭のピクチャーブック(画集・写真集)でもありませんし(しかし写真がよろしい、という評価は方々で頂いています!)、日本の庭のハウツー本でもなし、かといって鑑賞ガイドでもなし。日本の庭がどういう観点で自然を映すのか、またそれはどういう考えや思想に基づいているのか、そしてこれからの日本庭園は世界でどう作ることができるか。。。というようなことをかなり大胆に問いかけているつもりです。
最近、海外で日本人の庭師が作庭をすることがますます増えてきているようです。(はい、私自身もいくらか。。)そして外国の方々が自分で日本(風)庭園を作られている例もとてもたくさん見かけます。すべて、ソーシャルメディアのおかげでそれらを日々目にすることができるようになりました。
果たして、50年前、30年前、20年前、と我々の先輩の庭師の先生方が海外で作庭されてきたその数々の庭と比べた時、どうなのか??私たちは日本庭園をつくるということについて、よりいっそうの機会の自由を得たのは間違いないですが、はたして作っているものはその自由を反映しているといえるでしょうか?
刺さるような問いではありますが、今一度そういう目で見てしまわざるを得ません。
「ほんとうにいい庭とはどういう庭か?」という問いがベースにあって、そしてそれを日本の庭の伝統に照らしながら追求する、という態度が必要なのでしょう。日本庭園の研究者ならこの問いや態度は必ずしも当たらないでしょうが、庭をつくる人間なら、やはりそれが大事なように思います。 <==== 自分自身を刺すようです!!! 痛!!
それはそうと、11月上旬に、知り合いのフランス人の庭師さんがこちらに見えるようです。茶庭の手入れでもご一緒してもらいましょう。
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投稿日:2019-09-14 Sat
「いつもAさんの御庭がきれいに手入れしてあるのを見て、ぜひうちも一度お願いしたいと思いまして。」というような は こ び で御庭のお手入れのご用命を賜るのはなんとも有り難いことです。今日下見にお邪魔したお客様はそうおっしゃいました。
庭はけっして他人に見せびらかすためのものであるべきではないと思いますが、御庭がきれいに手入れしてあるというのは、持主様にとっても、また近所のかたにとっても、たまたま通りすがる人々にとっても、なにか心が和み、清らかになることがあると信じたいと思います。またそう思い続けることによって、我々庭師の社会への貢献が正当化できましょう。
庭の手入れというのが人と社会に与える影響は小さくないのではないか、そう自負するのですが、そのとき現実問題として必ず関わってくることに、お金のこと、そして 時間のこと、があると思います。
まず、どの程度の時間や手間をかけて庭を手入れするかという問題、つまり、手入れという行為に直接関係する経済の問題。そして、人間の生の時間と庭の生の時間との折り合い、という問題、つまり、ご先祖様~当代の御庭の持ち主~子孫へと至る時間の中で当事者である方が庭をどう生かしどう成熟させ、あるいはまたどう始末するか、というような問題です。
実は個別のお客様の御庭を扱うとき、その問題の特定は千差万別であるべきで、またその解決方についても然り。
庭仕事の技術はもちろん、庭を取り巻く お金と時間 のコーディネーションについてもまことに奥が深過ぎて.。。。まさに試行錯誤でございます。
投稿日:2019-08-15 Thu
お客様へのプレゼンテーションに、手描きのパースっぽい絵を4枚ほど描きました。頭の中でその庭空間にいる自分を想像して、その自分が見るであろう(見たいであろう)庭の雰囲気やこれだ!という庭の構成要素をちょっとドラマチックに表現してみる。。。
「うまいですねぇ」
「いえいえ」
「やっぱりこういう絵を描くのがお好きなんですか?」
「はい、まあ。。。」
私のお見せした絵によって、お客様はこの想像上の庭にご自分で立たれることができた、と、そう思える瞬間でした。
絵については、別にきちんと勉強したわけではありませんが、これまでにすばらしい示唆を与えてくれた人たちが確かに存在します。
一人はアメリカの学校のジム・コーナー先生(←あの、ニューヨークの「スカイライン」。。。でしたっけ、名前は。。。をデザインしたランドスケープデザイナー)。彼は、いきなり授業で我々にニンニクの絵を描かせたのです。ニンニクを見ること、それはまるでニンニクになること、というような芭蕉にも通じそうなメッセージ。冷徹(超客観??)ともいえるような観察眼で、ものに迫る。。。そして彼は、present をするのであって、represent ではないのだ、と教えてくれました。つまり、絵を描くときはものの本質を自分なりに解釈して新たな価値を付け加えるべく前に放り出すのであって、すでに誰か(自分を含めた)が定めたものの概念やものの観方を自分の絵によって代弁するのではない、と。あれれ、難しい話になってしまいました。。。でも、その時の私にはそれがピンときて、納得!と思えましたし、今でもそれは貴重な教えとして残っています。
もう一人は、そのアメリア時代のクラスメートの中国系アメリカ人の女性。天才か!と思える絵のうまさ。すごいと思ったのは、注目してほしいものの描き方は実にエッジが効いてシャープなのに対し、注目をそれたものたちは、絶妙なぼかしでハショッていること。人間はあるひとつのものに釘付けになると他のものはほとんど見えていない。ほんの一瞬のことではあるけれども。でもその見る人の一瞬の脳のはたらきを絵が捉えているのです。だから臨場感というか閃光のごときインパクトがえげつない。。。
もう一人は、スイスのパオロ・ブルギ氏。私の恩師でもある人。彼は、常々、「どう見えるかを描くのではないよ。何を見せたいか、そして何を感じてほしいかを描くのだよ」と言ってくれました。惚れ惚れすることば。デザイナーであるなら、まだ形になっていないものを描いて顧客に説明する段階があるのだから、そのときは、このコトバが実に説得力をもってきます。
などなど、いろいろなひとが絵について教えてくれました。自分の絵などほんとうにたいしたことはないけれど、絵ごころだけは常に持っていないと絵にならない、とは思います。たかが絵、されど絵は深いものがありそうです。
投稿日:2019-04-16 Tue
イタリア人と日本人のハーフの男子、歳のころ19才。イタリアでこれまでの人生の大半を過ごし、今現在は一時的に日本に滞在中。日本の庭と庭師について興味を持ち、ちょっとどんなものか体験してみたい、と。何故に??という私の質問に対し、彼はなかなかいい返事をしてくれました。
「日本の庭は美しいけど、どうやってその美しさが生まれるのか、それを知りたい」
いかがでしょう、非常にシンプルで的をついた応えだと思いました。
このシンプルな疑問と探求心をこれからずーと保持していくことができれば、間違いなくいい庭師になれるのではないだろうか、そう思います。
その疑問に答えをだすには、自分なりの頭とからだ両方を使った研究が必要になるでしょう。
そしてそれはいかに経験を積んだ庭師でも、けっして忘れるべきではない疑問でしょう。
日本で育った若者たちに同じ疑問と探求心が生まれるかどうか、それは外から見たときによりいっそう純粋に生まれてくるものなのか、はてはて。。。
私自身がかつてイタリアで生活するなかでより強くなっていった日本の庭へのあこがれ。それを思い返すことになりました。
投稿日:2018-11-12 Mon
伸び放題だった松の剪定を依頼され、さて天辺から剪定しはじめて半時間ほどたったころ、何か獣臭みたいなものを辺りに感じ、変だなぁ、と思いつつそのまま作業を継続、さらに1時間たったころ、ふと気が付くと、鳥の巣。その中にいた二羽の雛と目があってしまいました。二羽は180度反対方向を向いて、目をパチクリしていました。しかし何鳥?雛はかなり黒い。烏?にしてはちょっと違いそう。。。よく今まで鳴きもしないで、なにもしないで静かにいたなぁ、と感心。さてしかし、いくら松の剪定が私の任務といえども、この巣をさすがに取ってしまうわけにはいかないだろう。こんな大きな雛が二羽も佇んでいるんだから。しかもこれだけ大きな雛だから、もうすぐ巣立っていくに違いない。
しかたない、お客様に説明して、この巣のある部分とその上の枝が形成している棚だけは残しておくことにしよう。
休憩時間にお客様にそのことを説明すると、それはごもっとも、と了解をいただきました。
休憩後、作業継続。と思いきや、何かが飛び立つ音。
親鳥が餌をもってやってきていたのでした。その姿は間違いなく、鳩。鳩だったのかぁ。
なるべく怯えさせないように作業を継続。
この日は一部分だけボウボウのままに残して、作業終了。
何日か経過。もうそろそろ巣立っていてもおかしくないかな?
お客様に作業をしたいと思いますが、登って見てきます、と伝え、登ってみると、確かに巣立っていました。しかも巣のあとはもとのままではなく、いくらか「解体撤去」したような様子。
ほう、飛ぶ鳥あとを。。云々といいますが。。。
すると下からお客様がなにやら、ニコニコしながら報告してくださるところによると、どうやら二日前の台風がくるその前の日、親鳥が二羽、軒の上で、整列して、見ていたお客様の方を向いて、
「大事にしてくれてありがとう」と言わんばかりに、お辞儀までしてくれた、とのこと。
ちょっといい話。
鶴の恩返しならぬ、鳩の恩返しがあるかもしれませんね。

無事 剪定の終わった松
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