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  S A C H I M I N E

Author:  S A C H I M I N E
世界の庭を見渡して考えたい―ほんとうにいい庭ってどんな庭?お客さまのよりよい暮らしに貢献する庭づくりをめざして、日本とイタリアの長~い歴史と深~い文化と豊か~な自然をインスピレーションの泉とします!。。。でも現実は暑さ寒さ虫と戦う植木屋の毎日でございます― (っ^-^)っ゙
ホームページはこちら:www.sachimine.com

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白い中世の街、セルモネータ
友人の家族を案内してセルモネータ Sermoneta を再び訪ねた。ローマから南東に約80キロ、教皇の避暑地のあるアルバノ山からさらにルピーニ山地に沿ってナポリの方面へ向かったところに位置する白い中世の街。背後のルピーニ山(Monti Lupini)は名前が示すとおり(語源はラテン語のlapis=石)石灰石でできた山地である。ローマからテッラチーナへ向かってアッピア街道を下ると左手にずっとつづく荘厳な連山だ。セルモネータは前に紹介した20世紀の街ラティーナとアッピア街道を挟んでちょうど反対側に位置する。(ラティーナはアッピア街道のある地点から海のほうへ右折、セルモネータは山の方へ左折、という具合。)

秋晴れ、気温も最適の絶好の観光日和だった。白い街が秋の澄んだ日差しでますます白く輝き、丘の上に立つというロケーションも手伝って、ひときわ別世界に達したような感覚になる。建物も敷石もことごとく白い。特に敷石は轍と靴の摩擦でテカテカに磨かれて、陽光を反射して輝かしい。町全体が白い石灰石でできているのだ。この石灰石は背後のルピーニ山から取ってきたものだという。丘の上にたつ町のちょうど頂上にあたる部分にお城が建っており、このお城も同じ白い石でできているが、完成には13世紀半ばから16世紀半ばまでの300年もの年月がかかったという。セルモネータが建築的にも文化的にも栄えたのは貴族カエタニ家による。この家系で1297年にここに最初に居を構えたのがピエトロ・カエタニ(元カゼルタ―ナポリ近郊の町―の伯爵)であったが、彼の叔父は教皇ボニファチウス8世(1294年に就任)であった関係上、セルモネータとカエタニ家の政治的、文化的地位は確立し、その後16世紀までセルモネータは特にこの丘上という戦略的ポジショニングのおかげで近隣の町との紛争や教皇・皇帝間の度重なる政争にも耐えて栄えたらしい。

友人とその家族をつれてガイド付のお城の見学に入った。このお城は、私が夏のギターのコンサートに訪れたことのあるお城だ。そのときは蝉のなく「境内」の他は正面の大ホールしか見なかったが、今日は家主の部屋やフレスコ画で塗られた迎賓の間、屋上に設えられた敵撃墜の設備、警備用の通用路、台所などいろいろな面白い部屋や施設を見学できた。(迎賓の間のみがフレスコ画で彩られているのは、イタリア人特有の bella figura 「いい格好」への執着だ、とガイドさんの談。)

ラティーナの町の説明で解説したとおり、下に眺めるポンティーナ平野はつい何十年か前まで大部分湿地帯だった。セルモネータが栄えた中世も当然マラリアの発生するほとんど通過不可能の悪魔の地だった。その悪魔の地から高く隔離されて(蚊もこの高所までは上ってこない)、またその悪魔の地によって守られながら(敵もこの悪魔の地で断念する)、それを遠く低く眺めながら悠々と建ち栄え続けたというセルモネータ。町と地形と政治・戦争との緊密で合理的な関係がよく現れている。

現在は丘の上にそびえる静かなそしてエレガントな町だ。なんといっても背後の白い山から白い石を運んできて300年かけて建設したという事実がこの町の美しさを裏打ちしている。お昼ご飯にはタルトゥーフォとポルチニ茸が入った手作りラヴィオリを食べた。

なお、セルモネータの下には有名なニンファ Ninfa という素晴らしいお庭がある。また別に紹介したい。



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| 06:43:05 | Trackback(0) | Comments(0)
街の生活臭 ~ モンテリッジョーニとサン・ジミニャーノ(トスカーナ)
ラポラノ・テルメから日帰り旅行を企画した。ラポラノ・テルメからシエナを迂回して北西にさらに12キロ、モンテリッジョーニ(Monteriggioni)を目指す。モンテリッジョーニは1213年、フィレンツェに抗するシエナの防衛拠点として築かれた町。トスカーナを代表するの二つの気品に満ちた街――フィレンツェとシエナ――の凄まじき勢力争いの歴史が残した遺産なのだ。車はなだらかな丘陵地を上り下りして、やがて丘の腹部に沿って谷あいの地形を横に見ながら少しずつ登っていく―。

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| 19:11:01 | Trackback(0) | Comments(0)
甘いマスクと赤ワイン ~ ラポラノ温泉(トスカーナ)
トスカーナへ車で温泉旅行に出掛けた。ラポラノ・テルメ(ラポラノ温泉)という名前の町だ。この町がある辺りはシエナの南に位置し、シエナ・クレーテを呼ばれイタリアでもっとも景色がいい地域のひとつとして知られている。私たちは町のはずれのホテル(ホテル・ドゥエ・マーリ)に宿をとった。なんのとりえもないホテルだったが、レストランは郷土トスカーナ料理をふるまう本格的なものらしい。印象的だったのは、このホテルのフロントに勤める男性の甘いトスカーナ仕立ての顔だった。私の観察ではトスカーナの男性はこのような甘いマスクをしているところに特徴がある。顔だけでなく物腰も柔らかい。簡単に言えばフェミニンなのだ。ロベルト・ベニーニがいい例であるが、そのような有名人に頼らなくとも、私の知り合い、友人のトスカーナの男性を総じて性格づけると、この甘いマスクと女性的な柔らかさに落ち着くのだ。それはローマ周辺でみる男性の顔や物腰とはとても異なり、プーリアの男性の慈愛とも異なるのである。また、ボローニャ周辺の男性の無骨さとも違う。このトスカーナ男性の甘さはいったいどこから由来するのか、私には大いに興味があるところ―。

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| 06:51:33 | Trackback(0) | Comments(3)
20世紀イタリアの記念的人工都市 ラティーナ
ラティーナは、イタリアの都市(citta')の中でも独特の歴史を持つ。ローマからナポリへティレニア海岸沿いに南下すると、旧ローマ教皇領とナポリ王国領の境にあたる地域、海岸に山が突き出した麓にテッラチーナという歴史ある町がある。執政官アッピアが紀元前312年に開設したアッピア街道(新アッピア街道が出来てからそれと区別するため、旧アッピア街道と呼ばれる)は、アルバノ山を越えヴェッレートリ、チステル・ディ・ラティーナ(「ラティーナの貯水槽」の意)を過ぎたあとテッラチーナまで40キロ、ほぼ一直線に走っている。ローマ帝国が衰退期に入って後、中世、近世を経て18世紀まで、アッピア街道はこのあたりにおいてその機能を失っていた。それは、この地帯、つまりローマからテッラチーナまでの一帯が広大な湿地帯であったからであり、インフラを維持管理できる政治組織がなくなったあとのアッピア街道は陥没して湿地に阻まれたまま放置されてしまったからだ。
イタリアやヨーロッパの各地でそうであったように、この広大な湿地帯は蚊の養殖地となりマラリアの発生を招いて、政治経済活動を衰退させる厄介物だった。ダンテが神曲の地獄編のなかで度々描写する沼地は古代から現代にいたるまで沼地がいかに病気と醜態の代名詞だったかを表している。例えば、地獄編第13歌には「チェーチナとコルニアの間の沼地(シエナから西に山を越えたトスカーナの海岸沿い、マレンマ地方の沼地)に棲む獣とてもこれほど凄惨な密林に住みこみはすまい。この場所には醜悪な鳥身女面の鳥が巣くっている。」とある。ダンテの地獄のイメージは夏に悪臭を放つ沼地が原点のひとつだったように思われる。


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| 23:09:09 | Trackback(1) | Comments(0)
カステル・ヴェッキオ ~ ヴェローナ
ベルガモの仕事の現場からインターシティ(IC)でヴェローナへ向かった。ベルガモからヴェローナへは110キロほどの距離で、インターシティの列車で割合のんびりした2時間の旅だ。途中ブレシャの町を通る。ポー川流れるピアヌラ大平野の北端をアルプスの足元にそって南東に一直線に走るのだ。左手にアルプスの南端の青い山並みを真近に見て進む。ガルダ湖を超えるとヴェローナに到着する。駅は郊外に設けられているため、駅から一歩足を踏み出すとすぐ前に広がるアスファルトのバス乗り場とロータリーを最初に目にすることになり、ロミオとジュリエットともカステル・ヴェッキオとも無関係な風景に出くわす。ランドスケープデザインがなによりも関係を作り出すデザインであるとするなら、こういうところにこそ知覚にも感性にも刺激的な場所の関係を作り出してほしい。ヴェローナを訪れる多くの人の最初の一歩はここから始まるのだから。ここが都市の物語の第一幕なのだから。旧市街へはどういったらいいかも分からない。関係と方向性を失った振付(コレオグラフィー)のなされていない都市景観。旧市街地ヴェローナの都市景観の評判と観光客の期待が高いだけに、それが一層残念に思われる―。

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| 22:51:19 | Trackback(0) | Comments(0)
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