投稿日:2006-02-23 Thu
先生が自分のヨーロッパ人のお弟子さん達を日本のお茶の稽古に参加させるときまって日本人の先生方は腰を抜かすという。先生のお弟子さん達が上手すぎるからだという。なぜ上手かといえば、お茶をするのに姿勢や呼吸を重視し、単に点前の手順を教わればいいというお茶を教えていないからである、と先生はおっしゃる。確かに去る9月にローマの北のブラッチャーノ湖の畔にあるカプラローラ(Caprarola)という街―この街については有名なファルネーゼ宮の庭園を含めて後日紹介したい―で行った一週間の集中セミナーには、ベルギー、ドイツ、フランス、アイルランド、イタリアから生徒さんが集まったが、長年稽古されている生徒さんのお茶をするときの姿勢といい、落ち着きといい、息遣いといい、目を見張るものがあった。そして、お茶をするとき以外の時間にみせる彼らの人間としての成熟度にも感心した。みな謙虚にして静か、かつ周囲に気を配ることを忘れない。ベルギーから来ていた先生のお気に入りのお弟子さんであると思われるティエリ氏は裏千家の奨学金をもらって京都に留学した経験を持つ。そのいたずらそうで、謙虚で、静かなまなざしは好感がもてる。またお茶も非常に上手だった。ドイツ出身で現在アイルランド在住のウィンフリードさんも極めて静か、そしてまた謙虚。彼は私にお茶の最初の手ほどきをしてくれた。またベルギー在住で、自分で茶室と庭を作ったというスタフさん。すでに仏を内にもっている―。オーストリアで大工をしているという若者のハンス。異様に気が利く。そして明るい。
続きを読む >>
スポンサーサイト
投稿日:2006-02-18 Sat
先生によるとローマのお茶は真面目すぎる、と心なき人たちが言うらしい。つまり、お茶をするのに坐禅をしろとか姿勢を正せとか力を抜けだとか先生がやたらと厳しく言うからだという。しかし、道場に通う生徒さんたちは口をそろえて私に言う。最初からいい先生に出会って君は幸運だ、と。確かにそう思う。
続きを読む >>
投稿日:2006-02-09 Thu
ラポラノ・テルメから日帰り旅行を企画した。ラポラノ・テルメからシエナを迂回して北西にさらに12キロ、モンテリッジョーニ(Monteriggioni)を目指す。モンテリッジョーニは1213年、フィレンツェに抗するシエナの防衛拠点として築かれた町。トスカーナを代表するの二つの気品に満ちた街――フィレンツェとシエナ――の凄まじき勢力争いの歴史が残した遺産なのだ。車はなだらかな丘陵地を上り下りして、やがて丘の腹部に沿って谷あいの地形を横に見ながら少しずつ登っていく―。
続きを読む >>
投稿日:2006-02-09 Thu
トスカーナへ車で温泉旅行に出掛けた。ラポラノ・テルメ(ラポラノ温泉)という名前の町だ。この町がある辺りはシエナの南に位置し、シエナ・クレーテを呼ばれイタリアでもっとも景色がいい地域のひとつとして知られている。私たちは町のはずれのホテル(ホテル・ドゥエ・マーリ)に宿をとった。なんのとりえもないホテルだったが、レストランは郷土トスカーナ料理をふるまう本格的なものらしい。印象的だったのは、このホテルのフロントに勤める男性の甘いトスカーナ仕立ての顔だった。私の観察ではトスカーナの男性はこのような甘いマスクをしているところに特徴がある。顔だけでなく物腰も柔らかい。簡単に言えばフェミニンなのだ。ロベルト・ベニーニがいい例であるが、そのような有名人に頼らなくとも、私の知り合い、友人のトスカーナの男性を総じて性格づけると、この甘いマスクと女性的な柔らかさに落ち着くのだ。それはローマ周辺でみる男性の顔や物腰とはとても異なり、プーリアの男性の慈愛とも異なるのである。また、ボローニャ周辺の男性の無骨さとも違う。このトスカーナ男性の甘さはいったいどこから由来するのか、私には大いに興味があるところ―。
続きを読む >>
投稿日:2006-02-07 Tue
ラティーナは、イタリアの都市(citta')の中でも独特の歴史を持つ。ローマからナポリへティレニア海岸沿いに南下すると、旧ローマ教皇領とナポリ王国領の境にあたる地域、海岸に山が突き出した麓にテッラチーナという歴史ある町がある。執政官アッピアが紀元前312年に開設したアッピア街道(新アッピア街道が出来てからそれと区別するため、旧アッピア街道と呼ばれる)は、アルバノ山を越えヴェッレートリ、チステル・ディ・ラティーナ(「ラティーナの貯水槽」の意)を過ぎたあとテッラチーナまで40キロ、ほぼ一直線に走っている。ローマ帝国が衰退期に入って後、中世、近世を経て18世紀まで、アッピア街道はこのあたりにおいてその機能を失っていた。それは、この地帯、つまりローマからテッラチーナまでの一帯が広大な湿地帯であったからであり、インフラを維持管理できる政治組織がなくなったあとのアッピア街道は陥没して湿地に阻まれたまま放置されてしまったからだ。イタリアやヨーロッパの各地でそうであったように、この広大な湿地帯は蚊の養殖地となりマラリアの発生を招いて、政治経済活動を衰退させる厄介物だった。ダンテが神曲の地獄編のなかで度々描写する沼地は古代から現代にいたるまで沼地がいかに病気と醜態の代名詞だったかを表している。例えば、地獄編第13歌には「チェーチナとコルニアの間の沼地(シエナから西に山を越えたトスカーナの海岸沿い、マレンマ地方の沼地)に棲む獣とてもこれほど凄惨な密林に住みこみはすまい。この場所には醜悪な鳥身女面の鳥が巣くっている。」とある。ダンテの地獄のイメージは夏に悪臭を放つ沼地が原点のひとつだったように思われる。
続きを読む >>
△ PAGE UP