投稿日:2015-06-13 Sat
奈良県宇陀市の菟田野、宇賀志という村の奥深くにある青蓮寺という浄土宗のお寺さまのお庭の管理を任されることになりました。1250年の歴史を刻む古刹。中将姫ゆかりのお寺。会いたい人に会える、というご利益があるお寺。ここまで奥深い場所で、木々に囲まれた境内では、鳥の声や風で揺れる緑の葉の音が変化に富み、不思議な臨場感を醸し出して、そこに一日いても寂しい、という感じはまったくありません。
手始めに、不必要な生え方をしている木々を根元から伐採し、枯れた枝、醜く徒長してしまっている枝、絡まって混んでいる枝などを「掃除する」感覚で除去していく作業をしました。不細工に切られてしまっている高木は、少しのあいだ放っておいて、そのうち木つくりをしなおさなくてはならないでしょう。作業を終えてみると、住職がしきりと、「どこをどう切ったかわからないけど、とにかく前と全然ちがう」とおっしゃいます。これは植木屋としてはかなりうれしいコメントです!
なんのご縁か ― 数年前、ならまちを散歩中にふと立ち寄った古本屋で買った《知恩院と法然上人絵伝》という展覧会のカタログが我が本棚にあり、買ってからも何度もそれは閲覧していました。なぜかというと、法然上人絵伝のなかで描かれる庭がなかなか素敵だからです。いろんな庭が描かれていますが、共通しているのは、さらっとしていながら、要所要所はしっかり作ってあるということです。地形(野筋)が興味深く造形されていたり、石が面白く据えられていたり、植栽(梅やモミジ、あるいは野草の類)が絶妙の位置に植えられていたり、など。休憩中に住職とお話をしながら、法然上人について興味が沸いてきました。そして、この青蓮寺のお庭も、この絵伝に描かれているような庭を参考にしながら、これから手を加えていけたらどんなにすばらしいだろう、と思います。
住職 「洗練されているだけでなくて、どことなく鈍臭いところもあったほうがいい。」
このおコトバをどう実現していくか。なにぶん、めざすは洗練された庭、です。鈍臭いというのは泥臭いということでしょうか。私は常々、泥臭いのを経て到達したのでない洗練は、本当の洗練ではないのではないか、と強く感じていますが、この住職のコメントは、もし洗練に行き着いたのなら、もう一度泥臭いものに向かうのだ!という意味なのかもしれない、そんな気もしてきました。しかし、ではそれを、庭という形のなかで表現するとなると―。
。。 。 。 。 。
や り な が ら 考えます。



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