投稿日:2015-09-15 Tue
ここに重森三玲による『茶庭入門』という本があります。ここのところ、ちょっと茶庭(露地)についてあらためて勉強しており、だいぶ前に買ったこの重森さん(なんて「さん」付けしちゃったりして。。。)の本を再びめくっています。
昭和二十一年発行、昭和二十二年再版。めくるたびにほのかなカビの臭い。日焼け甚だしく。
重森印が発行所記載の欄に押してあったりして、また見開きに「斉藤」なんていう印が押してあったりして、まさに古本です。(ところでこの斉藤さん、って重森氏のお弟子さんのあの斉藤さんかな?だとしたらこの古本、なおさらいいね!)
重森三玲の文章は、力強い。例の私の本『San Sen Sou Moku 山川草木』の第二章「草」の部では、先人たちが記した庭へのさまざまな思いを日本語からイタリア語に訳して紹介しましたが、その中でも重森三玲の文章を2つ紹介しています。彼の文章は臨場感たっぷりで、ぐいぐい惹きつけるものがあります。そして使命觀に満ちている。
さて、この『茶庭入門』の序文も、例外ではありません。ちょっと長いのですが、がんばって全文転記してみます。
大自然と云うものを、あくまでも根幹として組みたてられるものが日本庭園であるが、その中で茶庭は殊に、自然美愛好の結晶である。自然が秘めた扉を開けて、その中にある美しいものだけを抽出したものが茶庭である。
出ましたね~ 重森節。いきなり、ズバッと言い切っています!シビレます。。。
そして続けます、
併しながら一面茶事の法則と調和する為に、藝術上で最も肝要な意圖と云うものを活躍させなければならない。この意圖は、自然の法則を歪めたものであってはならない。それだけに茶庭を作ることも、茶庭を茶事の上で用ひることも、茶庭を觀賞することも中々六ヶ敷い點がある。
日本民族の古い傳統的なすべての生活様式を溶け込ましたものが茶庭であると同時に、何時如何なる新しい生活様式にも即應させるのが茶庭の生命でもあるから、茶庭は最も古くして且つ最も新しい存在である。その要點が解らない人々は、茶庭と云ふものを無用の長物し去るの風があるが、決して茶庭は左様な浅薄な存在ではない。日本民族性の眞の姿を寫し出すのが茶庭であるから、茶庭はさうした意味での縮圖でもある。すべての生活を切りつめた中に、美の極致を見出して作り上げられたものが茶庭であるから、最も狭い土地が利用されて、而も最も大きな景觀を描き出すのが茶庭であり、池を掘る代りに、手水鉢に一ぱい汲み入れた水が、池泉にも增す景觀が見せられる。縮小されてこそ、美は極度に高潮を示すものであって、それが茶庭の要素である。
侘びも、寂びも、枯淡も、潤ひも、勢いも、なじみも、冴えも、映えも、ともに日本民族性としての悠久な訓練が積まれて居り、それ等のすべてを一木一石に表現することを生命とする茶庭は、日本民族の正しく味ひ得る領域であると共に、世界人の理解にまで發展するものでなければならない。斯様な祖先の遺してくれた貴重な存在を理解してこそ、民族悠久への資となるであらう。
斯る民族文化の偉業が、今日の我が國民に理解出来ぬ點がありとすれば、惜しむべき状態と云わねばならない。著者が茶庭への入門書として、何人にも茶庭を理解せしむべき一書を脱稿したのも、決して無益でないことを信じてゐる。
我が民族文化の偉業を顧みる時、今日の世界平和に對する時局を是が非でも乘り切らねばならぬ覺悟が、更に根强く擡頭するのである。これあってのみ世界人類の文化的指導が達せられるであらう。
昭和廿一年二月五日
重森三玲識
重森先生、ありがとうございます。何も申し上げることはございません。
茶庭の要点を示すにあたり、時代の要請とはいえ、「世界人類の文化的指導」にまで思いを馳せられた貴方様は、やはり偉大な芸術家でいらっしゃいました。
庭を生業とする人間にとって、なんども噛み締めるに価する文章です。
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