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  S A C H I M I N E

Author:  S A C H I M I N E
世界の庭を見渡して考えたい―ほんとうにいい庭ってどんな庭?お客さまのよりよい暮らしに貢献する庭づくりをめざして、日本とイタリアの長~い歴史と深~い文化と豊か~な自然をインスピレーションの泉とします!。。。でも現実は暑さ寒さ虫と戦う植木屋の毎日でございます― (っ^-^)っ゙
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20世紀イタリアの記念的人工都市 ラティーナ
ラティーナは、イタリアの都市(citta')の中でも独特の歴史を持つ。ローマからナポリへティレニア海岸沿いに南下すると、旧ローマ教皇領とナポリ王国領の境にあたる地域、海岸に山が突き出した麓にテッラチーナという歴史ある町がある。執政官アッピアが紀元前312年に開設したアッピア街道(新アッピア街道が出来てからそれと区別するため、旧アッピア街道と呼ばれる)は、アルバノ山を越えヴェッレートリ、チステル・ディ・ラティーナ(「ラティーナの貯水槽」の意)を過ぎたあとテッラチーナまで40キロ、ほぼ一直線に走っている。ローマ帝国が衰退期に入って後、中世、近世を経て18世紀まで、アッピア街道はこのあたりにおいてその機能を失っていた。それは、この地帯、つまりローマからテッラチーナまでの一帯が広大な湿地帯であったからであり、インフラを維持管理できる政治組織がなくなったあとのアッピア街道は陥没して湿地に阻まれたまま放置されてしまったからだ。
イタリアやヨーロッパの各地でそうであったように、この広大な湿地帯は蚊の養殖地となりマラリアの発生を招いて、政治経済活動を衰退させる厄介物だった。ダンテが神曲の地獄編のなかで度々描写する沼地は古代から現代にいたるまで沼地がいかに病気と醜態の代名詞だったかを表している。例えば、地獄編第13歌には「チェーチナとコルニアの間の沼地(シエナから西に山を越えたトスカーナの海岸沿い、マレンマ地方の沼地)に棲む獣とてもこれほど凄惨な密林に住みこみはすまい。この場所には醜悪な鳥身女面の鳥が巣くっている。」とある。ダンテの地獄のイメージは夏に悪臭を放つ沼地が原点のひとつだったように思われる。



今は温和な緑の田園地帯であるこのラティーナを取り囲むアグロ・ポンティーノと呼ばれる地帯の歴史は、湿地帯を運河網によって排水干拓し、農地として開墾するための大規模なエンジニアリング事業の歴史だった。

アッピア街道を敷設したアッピアの時代(紀元前4世紀)に街道敷設と平行してすで排水エンジニアリング工事がなされ、紀元前160年には執政官コルネリオ・チェテーゴが排水事業を行い、東ローマ帝国のテオドリウス帝も事業に着手したと歴史に残る。ローマ時代の自然学者老プリニウスCaius Plinius Secundus (A.D.23-79)は「ポンティーノの湿地帯はイタリアに農地を回復するために干拓しなければならない。」といったという。16世紀には教皇レオーネ10世がレオナルド・ダ・ヴィンチに排水事業に用いる目的でこの地帯の地図を作成するよう委託している。その後は、1777年に教皇ピオ6世が大規模な排水工事、運河建設を実施し、さらに運河沿いに松とポプラの並木を植えるなど一種の修景工事も行った。しかし、こうした度重なる事業にも係らず、20世初頭までこの地帯は依然広大な湿地帯だった。ゲーテの『イタリア紀行』内の1787年7月10日ナポリのティッシュバインからゲーテへの便りにも、「そこ(ヴェレトリ)を午後三時に出発し、ポンティネ沼沢地を通っていったが、今度は緑なす樹木や叢林がこの大平原にこころよい変化を与えているので、冬の時よりもはるかに気に入った。」と記されている。

1927年、13万5千ヘクタールにおよぶ湿地帯・半湿地帯が大規模な運河、井戸、道路建設によって農地として干拓された。1932年、約6万人のヴェネト、フリウリ、エミリア地方の農民が入植し、点在する農村集落(borgo)を形成した。今でも、この地帯をドライブすると、Borgo --- と示すサインにあちこちで出会う。1932年、国家戦闘団(Opera Nazionale Combattenti)は、団長ヴァレンティーノ・オルソリーニ・チェンチェッリの主導で、Borgo の一つだったリットリア Littoria 集落を「都市」citta' に発展させようという事業に着手した。これがラティーナの都市としての受精卵である。「反・都市」を国家政策のモットーに掲げたムッソリーニは、始めはリットリアの都市化が政策にそぐわないとして無視を決めたが、やがてラティーナ(リットリアはラティーナとして名を変更した)の成功をを政治宣伝に利用することが得策だと分かり、ラティーナの都市の最初の核が出来上がったことを記念する「竣工記念式」では堂々と市役所のバルコニーに登場した。人間の手による自然の脅威の克服と新しい政治・経済活動の拠点建設を謳歌するためだ。こうしてラティーナは、ファシズムの記念的都市として国際的にも大いに知れ渡り、ヨーロッパ各地から視察団が訪れた。ラティーナの都市計画に携わったのは、建築家オリオロ・フレツォッティ。彼の計画によって、ラティーナの役所が建つ中心広場から郊外に点在する主な農村集落へ向けて放射線状に直線道路が敷かれ、かつ8角形の中央広場からは同心円状に環状道路が敷かれた。農業地帯にできた新しい都市として、郊外と都心(中央広場)とを象徴的かつ機能的に結ぶ都市計画だ。

ラティーナには現在でもファシズム建築がたくさん残っている。ファシズム建築といえば、コモのテッラーニを思い出すが、その独特の丹精なプロポーションはある種の官能美さえ湛えている。イタリアで20世紀になって何もない田園地帯、「無」から作られた都市というのは少ない。現在人の住んでいるイタリアの主要な町は、2000年、1000年、500年と続いてきた歴史ある町がほとんどだ。ローマからドライブしてラティーナの街に入ろうとするとすぐにこの同心円状環状道路の存在に気づく。ひとりの建築家の都市計画が、私たちがその都市に足を踏み入れる際の最初の印象を決めてしまう。ラティーナはそのような例としてもめずらしい。すべての町は人工なのであるが、有機的であるといわれるイタリアの丘陵地の歴史ある町には人工であるということすら忘れさせるような自然さがある。それと比較すると、ラティーナは純粋に人工的だ。歴史あるイタリアの丘陵地の町が常に病気の発生源である沼地・湿地を避けた高台に建設されたことを考えると、あえて湿地を干拓して築いた都市ラティーナは20世紀イタリアの記念的都市として名を残すだろう。
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| 23:09:09 | Trackback(1) | Comments(0)
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白ワインは辛口がおいしい。大変良い香りあっさりしていながらうっとりするような口あたりで、こんなに飲みやすいワインははじめて・・・この味は多分忘れられないでしょう。・ピアット スズキ・生ハムフェスタ・イタリアワイン(フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア)・イタリ 2007-07-21 Sat 11:42:32 | イタリアの1日