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  S A C H I M I N E

Author:  S A C H I M I N E
世界の庭を見渡して考えたい―ほんとうにいい庭ってどんな庭?お客さまのよりよい暮らしに貢献する庭づくりをめざして、日本とイタリアの長~い歴史と深~い文化と豊か~な自然をインスピレーションの泉とします!。。。でも現実は暑さ寒さ虫と戦う植木屋の毎日でございます― (っ^-^)っ゙
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街の生活臭 ~ モンテリッジョーニとサン・ジミニャーノ(トスカーナ)
ラポラノ・テルメから日帰り旅行を企画した。ラポラノ・テルメからシエナを迂回して北西にさらに12キロ、モンテリッジョーニ(Monteriggioni)を目指す。モンテリッジョーニは1213年、フィレンツェに抗するシエナの防衛拠点として築かれた町。トスカーナを代表するの二つの気品に満ちた街――フィレンツェとシエナ――の凄まじき勢力争いの歴史が残した遺産なのだ。車はなだらかな丘陵地を上り下りして、やがて丘の腹部に沿って谷あいの地形を横に見ながら少しずつ登っていく―。


そこには丘の尾根を取り囲むようにして中世の城壁がめぐり、いくつもの塔がそびえていた。城壁の外側に設けられた駐車場へ車を停め、城壁に沿ってこじんまりと植えられたオリーブ畑を側に見ながら坂道を徒歩で上がった。そして町の中央広場に通じる城門の一つから入城した。中は静けさが充満した100m四方にも満たない小ぶりな広場だった。敷石が美しい。教会が右手に鎮座する。小さい教会ながらその白い石のファサードは堂々として威厳に満ちている。広場を取り囲むのはいくつかのバール、レストラン、土産物屋などいずれも背の低い石造りの建物だ。城門の脇に建つ骨太の塔だけが、丘に下駄を履かされたかのように天に向かってその地味な高さを精一杯伸ばしている。城門のほうに目を向けると、先ほど車で走ってきた丘陵地帯のなだらかな地勢が城門のアーチに切り取られて露出した。さらに広場を突っ切り、町を縦断して反対側の城門へ辿り着くと、アーチ越しに同様、丘陵地が広がっていた。ここはフィレンツェ領からシエナ領を護るための戦略的基地だったのだ。そのことがよく分かる。幾たびの修復を経てには違いないが、町を取り囲む城壁はほぼ完璧な姿で残っている。

800年いう年月に思いを馳せれば、この城内の静けさもひときわ身にしみる。そもそもモンテリッジョーニは、フランチジェーナ街道(Via Francigena)と呼ばれた巡礼の路の上に位置している。もともとフランチジェーナ街道はロンゴバルド王国(568―774年)によって古代ローマのカッシア街道を下地に敷かれたというが、フランク王国(481―843年。774年にロンゴバルド王国を滅ぼしてイタリア北部を領土に含め、現在の独、仏、伊に相当する領土を占めた王国)の時代、厳密には876年にその名をフランチジェーナと改め、教皇領ローマとドーヴァー海峡のカレーまでを繋ぐ巡礼の路として栄えた。フランク王国のカール大帝は800年のクリスマスの夜、ローマのサンピエトロ大聖堂で教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を戴き、西ローマ帝国を復活させたというが、カール大帝がローマに参上するのに使ったのもこの街道に違いない。このことから、モンテリッジョーニの城塞としての基礎が任意に作られたものでないことは明らかだ。古代ローマ時代からフランク王国を経て中世の到来までの間、モンテリッジョーニの建設された地はヨーロッパの歴史の動脈の一つにあたっている。この地方をドライブすると丘陵地帯の中に静まり返って数々の修道院(abbazia)が建つのを目にするが、これらはフランチジェーナ街道が巡礼の路として栄え始めた中世の始まりに端を発するのだろう。(例えば1001年、モンテリッジョーニの建設より先に、同じフランチジェーナ街道上のこの地域に、イゾラ・ダルヴィア(Isola d'Arbia)という修道会の教会が建てられる。)1213年、フィレンツェに対抗してシエナがモンテリッジョーニを建設してからは血なまぐさい歴史に違いない。1554年にはメディチ家のコジモ・デ・メディチによってモンテリッジョーニは陥落する。現在のモンテリッジョーニの中央広場の静寂は、まるで私たちに血なまぐさい歴史を反語でもって語っているようだ。黒澤明ならこの静寂をもって、いかなる歴史上のドラマを描くだろう?

モンテリッジョーニはしかし、歴史の街ではない。城壁の中の町を散策すると、石造りで多くは2階建ての民家の軒先に鮮やかな花のポットが設けられ、窓から人々の声も聞こえてくる。生活がある。

モンテリッジョーニをあとにし、サン・ジミニャーノ(San Gimignano)へ向かった。丘陵地の茶色の町の数々を遠くに近くに眺めながら過ぎた後、谷あいの道を進むと、右前方に現れた。いくつもの塔が林立している。林立というには数が足りないが、その数はすぐに何本あると把握できるほど少なくはない。厳密には14あるという。中世のマンハッタンとはよく言ったものだ。権力と財力の誇示という建設の動機もマンハッタンと比肩しうる。往時には72の塔があったという。車窓から遠めにハリネズミのような町のスカイラインを眺めながら、塔を建てるということの意味について思いを馳せた。権力の象徴、自由の象徴、監視の手段――。権力の象徴、パリのエッフェル塔が示すように。自由の象徴、ルイ・バラガンの塔あるいはバベルの塔が暗示するように。監視の手段、フーコーが指摘したように。上へ上へ。人間はなぜ上へ伸びようとするのか。上がなぜ権力と結びつくのか。自由と結びつくのか。。。

町の中心部へは車で入られない。町まで程遠い駐車場に車をおき、そこから歩いて町へ上がった。町の外壁の門(サン・ジョヴァンニ門)をくぐると中心部に向かってまっすぐに石畳の上り坂(サン・ジョヴァンニ通)が続いている。その両側はほとんどが土産物屋だ。そのいくつかに入ってみたが、店員は商売する気もなく、レジに座って新聞や本を読んでいるものがほとんどだ。外国人観光客相手の商売なのだろう。「買いたければ買っていけ」という態度だ。店内にはこれといった動きがない。陳列してある品物を見ても、店の雰囲気を見ても、店員の表情を見ても、興味を惹くものはこれといってない。このような雰囲気はあまり他のイタリアの町――たとえどんなに観光化されていようとも――では見たことがない。

そんな退屈な土産物屋に挟まれた街路に、たった一つ花を与えていたのは、つい何日か前に執り行われたであろうお祭りの山車だった。たいそうカラフルにいろどられたひょうきんな動物や怪獣たちが3台の山車にワンヤカンヤと貼り付いている。実によくできており、滑稽で愛らしい。妻と一緒におサルと怪獣の前で写真を撮った。

街路を進むと中央広場(ピアッザ・デッラ・チステルナ、文字通りには「貯水槽の広場」の意)に出くわした。広場を取り囲む建物郡は12,3世紀に建てられた由緒ある建物らしいが、どうしたわけか、この街の中心部に人が生活している気が感じられない。2月は観光客がもっとも少ない時期のひとつなのだろう、観光客も少ないが、地元民らしき生活者の姿も見当たらない。人はいったいどこに?例えばローマであれば有名な広場に面した建物にも生活臭が漂う。トスカーナの丘陵都市でも、シエナであればカンポ広場に観光客相手のハレの雰囲気が漂うと同時に、日常生活者のケの生活の臭いが漂っている。サン・ジミニャーノは、果たしてグローバリゼーションのあおりを受け、米英の資本に魂と日常を売ってしまったのだろうか?生活を失ってしまった街――。これは私のほんの直感に過ぎない。今日のサン・ジミニャーノを歩くと少し憂鬱な気分になった。
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| 19:11:01 | Trackback(0) | Comments(0)
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