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  S A C H I M I N E

Author:  S A C H I M I N E
世界の庭を見渡して考えたい―ほんとうにいい庭ってどんな庭?お客さまのよりよい暮らしに貢献する庭づくりをめざして、日本とイタリアの長~い歴史と深~い文化と豊か~な自然をインスピレーションの泉とします!。。。でも現実は暑さ寒さ虫と戦う植木屋の毎日でございます― (っ^-^)っ゙
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禅精神のディメンションとプロポーション―龍安寺庭園をめぐって
ヴェネツィアのカ・フォスカリ大学で「数学と文化」という面白い国際シンポジウムがあり、そこで龍安寺の庭について30分の短い講演をしてきた。シンポジウムの主催者であるローマ大学の数学の教授ミケーレ・エンマー氏が招待してくれた。ヴェネツィアのドルソドゥーロ(Dorsoduro)という地区にカンポ・サンタ・マルゲリータ(Campo Santa Margherita)という広場があり、そこに面して、昔教会だった建物が修復され、かつては映画館、いまはカ・フォスカリ大学に付属する講堂になっている建物がある。そこがシンポジウムの会場だった。


ドイツ人のある参加者は、「数学と文化」というテーマ自体がイタリア的であり、ドイツではこのような会議は不可能だろうと言っていた。ドイツでは「数学教育」くらいのテーマがやっとだろう、という。会議に参加したオーストラリア在住の建築家も、オーストラリアでも不可能だろう、という。日本ではどうだろうか?主催者であるエンマー氏自身、父上が映画監督であったらしいし、自分も映画を撮ったことがあるという(しかも、若き頃に龍安寺で。。。)。数学と文化の接点を見つけ、数学が芸術や文化の諸現象を鮮やかに説明し得るのみならず、それらの境界を軽やかに乗り越えていく様は彼にとっては理想でもあり、また当然のあり方でもあるのだろう。とにかくギリシア・イタリア世界においては数学は芸術と分離しては存在しなかった。音楽、建築、絵画の分野においてとりわけそうだった。数学は簡単な数式と幾何で世界の原理を説明しようとすることにおいてそれ自体芸術的行為である。そのような数学に対する考え方―「数」を用いた芸術―がこのシンポジウムの基幹をなしている。それがイタリア的であるのかもしれない。

特に印象を受けた講演は、ピザ大学の数学の教授がフィボナッチ数列によってひまわりの花の構造を説明したもの。そして米国のアラバマ大学で教える作曲家・グラフィックデザイナーによる音楽・図形・数学の関係についての講演など。他には数学の応用としてのゲームの理論、数学の医学への応用など、非常に高いレベルの講演が2日半にわたって立て続けに披露された。私など数学専門でない者も参加者には多かったと見え、数学の専門家はできるだけ「砕いて」説明していたが、それでも私などの理解できる領域ではないと感じさせる講演もいくつかあった。

私の発表は『禅精神のディメンションとプロポーション―龍安寺庭園をめぐって』と題した。簡単に要約すれば、前半で久松真一のことばや摩訶般若波羅蜜多心経のくだりを引用しながら禅の精神を簡単な式として表現した。つまり、
自己=世界
形(存在)=空(無実在)
彼岸+渡る行為+渡った状態=禅=静寂=自由
というもの。
そして後半では、私がこれまで龍安寺について書かれた様々な文献から学んだり、今回新たに自分自身で分析してみた結果導き出された龍安寺の十五個からなる五組の石組みの構成を説明しうる3つの幾何学的「遊び」について説明した。それらの遊びとは、つまり、
・放射状線とパースペクティブの遊び
・膨張作用を介した「形」から「空」への転換の遊び
・フラクタルの遊び
という3つである。そしてこれらの遊びが上の禅精神の式を如実に反映したものであるという筋書きだ。そして最後は、禅精神にならって、この私の龍安寺石庭の解釈は他に如何様にも可能な解釈のうちの一つでしかなく、この解釈どおりに設計者が意図したかどうかは疑わしい、が、この解釈の自由を与えうる庭園こそが禅の庭園なのだ、と締めくくった。

結果はなかなかよかったと見え、後から何人かの参加者から「面白かった」「発表自体が禅的だった」「多くを学んだ」と反応を得た。この発表は、会議の報告書として出版されるものに載るはずである。また、私がただいま執筆中のイタリア語による日本庭園に関する本にも収録する予定だ。
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講演・講義 | 05:35:53 | Trackback(0) | Comments(0)
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