投稿日:2006-03-30 Thu
イタリアという国の地形は「現在」どのような状態か?イタリアの地盤はどうやってできたか?イタリアという国を地形という観点から大観すると、重要な要素が6つあることに気付く。1.オーストリア・スイス・フランス国境にかけて東西に走るアルプス山脈
2.イタリア半島をリグリアからシチリア島まで縦に背骨のように走るアペニン山脈
3.アルプス山脈とアペニン山脈の二つの尾根の中間に展開するポー川流域のパダノ平野
4.コルシカ島・サルディニア島の二島
5.ティレニア海(ローマ側の海)
6.アドリア海(ヴェネツィア、アンコーナ側の海)
この中でも特に重要なのは1と2、すなわちアルプス山脈とアペニン山脈の二つの山脈だ。山が造られる力学的プロセスのことを地学では造山運動(英語ではorogenesis。orosはギリシャ語の山、genesisは誕生の意)と呼ぶ。山脈・山岳地帯が国土の大部分を占める世界中の国々(日本が良い例)において造山運動はランドスケープの骨組みを理解する重要な鍵になるが、それはここイタリアおいても同じだ。いや、イタリアの場合、造山運動というものがなければ国土は出来なかったといってよい。そして造山運動と同時にランドスケープの骨組みを作る決定的な作用がもう一つある。風雨による地盤(岩)の浸食と川海による堆積作用だ。簡潔に言えば、3のパダノ平野はその作用によってできあがった。山を造る作用(土砂の岩化と隆起)と山を削って平地となす作用(岩の土砂化と堆積)。突き詰めて言えば、この二作用の拮抗のうちにランドスケープの骨組みが成り立っているということができる。それは今でも絶え間なく続いているプロセスだ。ただ我々はそれを日常において知覚できない。なぜならば、それは地学的な時間において続行中のプロセスだからだ。しかし、ひと度この地学の時間に敏感になれば「ランドスケープは無常である」というテーゼが根本から納得できるだろう―。
最初に言っておけば、アルプス山脈が隆起し始めるのが今から大体5千万年前。アペニン山脈が隆起し始めるのが今から大体3千万年前だ。(ただし、その頃アペニン山脈は今の位置にはなかった。)イタリアが大体今のような地形と形で海から隆起したのは今から1千万年前頃といわれる。
ここでは、イタリアの地盤が形成されていく過程を周辺部を含めた少し大きな視点から語ってみよう。
2億5千万年前より以前は、地球上にはパンゲアという一つの大陸塊があり、それ以外の海はパンサラッサ海といわれる海だった。パンゲアは地球内部の熱が拡散しないように被せた蓋だとイメージするとよい。マントル内部ではマントルが上昇して拡散、そしてまた下降・合流という対流を繰り返しているが、このマントルの上昇・拡散が起こる局所において、その上部の大陸地殻(パンゲア)が加熱され、地殻が薄くなって膨張し、反り返り、亀裂が入り始める。地殻が膨張し、反り返り、亀裂が入ったところを地溝といい、内部のマントルから地殻へ向かって膨張圧力がかかり続けると、ついには地殻が分裂し、大陸分離と発展するわけだ。まるでゴムのマットを引き伸ばそうとするとき中央部分を縦に加熱しながら引き伸ばすとその加熱された線に沿ってゴムが薄くなって中央で分裂してしまうのをイメージすると分かりやすい。
地溝には周りの海から水が浸入して海を形成し始める。この地溝は海に埋没すると海嶺(英語ではoceanic ridge)と呼ばれる。その割目からはマントル物質が上昇してその両側へ溶岩を落とす<海洋プレートの生産>。新しい溶岩が湧き出るにつれ、この増産された海洋プレートは割目軸から水平移動して遠ざかっていく<海洋プレートの増産>。こうして海(海洋プレート)は拡張し、大陸プレート(この場合パンゲア)の分離分割がますます進むというわけだ。海嶺は海洋地殻の生産・成長の場所というわけだ。海嶺の割目から遠ざかった部分の海洋地殻は温度が冷め、また陸地からの堆積土砂(およびそれが石化した堆積岩地盤)をその上に被るため、割目部分に近い海洋地殻より重い。よってその重さのせいで遠ざかった果てで今度はマントル内部に落ち込んでいくこと(潜込み=英語でsubductionという)が容易になる。(この潜込みこそ後に記すアルプス山脈やアペニン山脈を作った造山運動のそもそもの切っ掛けだ。)
最初海がまだ浅いときには、海水に溶けたミネラルが海岸近くで凝固して堆積したり、海水の蒸発作用によって蒸発岩(石膏、塩岩、ドロマイトなど)を形成する。やがて海が深化するに及んで、大陸から浸食され運ばれてきた土砂が、岩石の粒の大きいものは平野部や海岸沿いに堆積、粒の小さい砂土は海底のより深いところまで到達沈殿して堆積し、砂岩や礫岩を形成する。
パンゲアは三畳紀に入った頃(約2億5千年前)から分離が始まり、ようやくジュラ紀に入った頃(約2億年前)になって南北に二分された。北をラウラシア(Laurasia)といい、南をゴンドワナ(Gondwana)と呼ぶ。この分裂のかなり初期の段階から今のちょうどイタリアがある辺りの緯度にテチス海という東に開けた湾海ができていたが、約2億年前にはこの湾の最深部(最西部)に、リグリア-ピエモンテ海という海が形成された(相対位置として今のジェノヴァ沖の海の位置にあるためそう呼ばれているのだろう)。この海が開かれたことによっていよいよラウラシアとゴンドワナが南北に決定的に分かれることになった。そして上で述べたような大陸の風雨で浸食された岩土砂がリグリア-ピエモンテ海の近海、さらに沖の深海に堆積するというプロセスが続く―。この時期の堆積岩が後に隆起してイタリアの背骨となるアペニン山脈の重要な部分を形成しているのだ。ラウラシアとゴンドワナの二大陸は乖離を進め、それを分け隔てる海が増幅し、その深さも増していく。大陸の周辺の地形も複雑化し、島や半島が多数形成され、南ではサンゴ礁の形成もこのころから進んだとされる。(サンゴ礁を起源とする石灰系の岩もまたアルプス、アペニン両山脈の重要な構成要素だ。)このゴンドワナ(つまり今のアフリカ大陸の原形)の北岸部の複雑に隆起した部分の一部が今のイタリア(半島と島々)の「地的祖先」の一部であろうと考えられる。
こうして約1億5千年前頃にはテチス海およびリグリア-ピエモンテ海の大きさは最大に達しただろうと考えられる。しかし、この頃からいったん南に離れて行ったはずのゴンドワナ大陸が、自大陸内のあらたな地溝の誕生によって亀裂し始め、約1億3千万年前、南大西洋が誕生し、ゴンドワナ大陸は南アメリカ大陸とアフリカ大陸に分裂した(現在アメリカは北アメリカ、南アメリカというが、ヨーロッパを北アフリカと言わないのは面白い。)。南大西洋が幅を増すにつれて、アフリカ大陸は徐々に東北方向に回転移動を始める。つまり、アフリカ大陸が北のラウラシア大陸に近づいていく。
今から約8千万年前、南大西洋を誕生させた地殻の分裂が北に「飛び火」する。つまり、北アメリカ大陸とユーラシア(ユーロ・アジア)大陸との分裂が開始し、北大西洋が誕生するのだ。この動きによって、ユーラシア大陸が南東方向に押されることになる。よって、ユーラシア大陸とアフリカ大陸の距離がますます縮むことになる。
そして約6千万年前、いよいよアフリカ大陸とユーラシア大陸がご対面、そして大陸同士の摩擦と圧迫が始まるのだ。このとき最初にユーラシア大陸(その西端のヨーロッパ大陸部)と接触したであろうアフリカ大陸北部の一部の陸の塊(破片)がアプーラ(Apula)と呼ばれ、今のイタリア半島の特に南部地域の前身ではないかと考えられている。ユーラシア大陸とアフリカ大陸の間には、テチス海およびリグリア-ピエモンテ海という海があったわけだが、海のプレートの表面を形成する岩は溶岩でできた火山岩が中心で、大陸プレートの表面を形成する岩よりも密度が高く重い。そのため二大陸が接近するとその中間に位置する重い海のプレートは大陸下(この場合ユーロ・アジア大陸)のマントルの内部へ潜込み(つまり、テチス海・リグリア-ピエモンテ海の海洋プレートは飲み込まれ消滅し)、やがて二大陸のプレート同士がいよいよ接触すると、それらはお互いを削ぎ取らんがごとくに重なり合って圧迫し合い、複雑に隆起する。
アルプス山脈もアペニン山脈も、基本的にはこの時代の大陸同士の接触と圧迫という造山活動によって隆起したものだ。さてここで、アルプス山脈とアペニン山脈とに分けて説明することが必要となろう。年代的には、アルプス山脈の隆起のほうが古く、アペニン山脈の隆起のほうが新しい。
= アルプス山脈の隆起 =
アルプス山脈は、西はジブラルタルから東はスマトラまで続くアルプス=ヒマラヤ造山運動が形成した一連の山脈の一部だ。つまり、西から、シエラ=ネバダ山脈、アトラス山脈、ピレネー山脈、アルプス山脈、アペニン山脈、ディナルアルプス山脈、カルパティア山脈、バルカン山脈、ピンドス山脈、ペロポネソス山脈、アナトリア高原、コーカサス山脈、エルブールズ山脈、コペト山脈、ヒンズークシュ山脈、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈と経て、南に下り、スマトラ島のバリサン山脈にいたる一連の山脈だ。
さて狭義のアルプス山脈は東西におよそ1000kmの長さで連なっている。西の端はジュネーブを掠めて大きく南に湾曲し、イタリア=フランス国境のモナコへ向かって海にぶつかっている。東に向かってはイタリア国内のトレンティーノ地方を含んだ辺りで幅を増し、クロアチアのイストラ半島からウィーンを結ぶ線で最大の幅となって終わっている。北はスイスとドイツ-ババリア地方の石灰質砂岩地帯(zona molassa)で限界となっている。この石灰質砂岩帯は、アルプスが形成されつつあった当時、その浸食と堆積によって形成されたものだ。
アルプスの造山は大きく3つの時代区分に分けて説明される。前期(1億3千万年から7千万年前)は、まだリグリア-ピエモンテ海の海洋プレートが大陸プレートに向かって潜り込みをしつつある段階で、海洋プレートの基部をなしていた玄武岩系の火山岩とその上に堆積し変成していった堆積岩と変成岩からなる地層、および浅い海で形成された石灰系岩石層がそれぞれぐちゃぐちゃになりながら、山積みにされていった時期。中期(4千5百万年から3千5百万年前)は、リグリア-ピエモンテ海の海洋プレートはすっかり飲み込まれ、大陸同士の衝突と圧縮が進み海溝から削り取られ山積みにされた堆積岩が北に向かって上滑りし、その上にまた別の堆積層を形成した時期。そして、後期(3千万年前以降)は隆起したアルプス山脈がそれ自体風雨の浸食にさらされながら前述のスイス・ババリア石灰質砂岩地帯を形成し、一年間に1mmという速度で隆起を続け、またインスブルック・ラインの断層にそって北アルプスが右へずれていった時期、という具合だ。
アルプス山脈を地質構造的に分類すると、3つのエリアに分けることができる。一番北西に位置するのがヘレヴェティコ―デルフィネーゼ(Elvetico-Delfinese)系で、これは元ヨーロッパ大陸のプレートに端を発する地質が支配的な地域。その南のペンニディコ(Pennidico)系は、リグリア-ピエモンテ海の海洋プレートに端を発する地質(放散虫岩などシリカ系堆積岩)が支配的な地域。そして、一番南に位置するオーストリアおよび南部アルプス系(Austro、Sudalpino)は、アプリア(元アフリカ北端の地塊)と元アフリカ大陸の大陸プレートに端を発する地質が支配的な地域、である。つまり、今我々がイタリアのミラノを出発し、コモ、ルガーノ、サンゴタール峠、ルツェルンという経路でアルプスを縦断北上すると、元アフリカ大陸系、リグリア-ピエモンテ海系、元ヨーロッパ大陸系という3つの地質構造的に特色を異にした地域を旅することになるのだ。
= アペニン山脈の隆起 =
北部アペニン山脈を形成するに及んだ大陸プレート同士の衝突は約3千5百万年前頃に起こったであろうと考えられ、南部アペニン山脈では約3千4百万年から2千4百万年前にかけてであっただろうと考えられている。この間、リグリア-ピエモンテ海はヨーロッパ大陸の下に潜り込み、徐々に消滅しつつあった。この時代の海底の堆積物は、砕屑岩(torbida)と呼ばれ、この時代が地殻同士の衝突・摩擦によって不安定であったことを知らせている。いずれにしても、これまでに堆積してきた地盤と、リグリア-ピエモンテ海がヨーロッパ大陸の下に潜り込みつつあったこの時代に潜り込みを逃れて堆積し続けた土砂が後に隆起してアペニン山脈を形成する岩石のもとになった[Dominio Ligure]。さらに、リグリア-ピエモンテ海の海洋プレートが完全に大陸下に潜り込もうとするときに、上部の堆積層が削り取られるようにして海溝上部に揉みくちゃに山積みにされる―。こうして山が出来た。要するに、アペニン山脈の骨組みは海の中で堆積、削り取り、山積みされた土砂が岩石化したものであるといえる。(例外はシチリアのアペニン山脈で、ここでは海洋堆積岩が見られない。そのため、この部分のアペニン山脈は実はアフリカ大陸の地塊の一部が元ではないか、と推測される。[上記、アプリア。])このとき、まだ山積みのアペニン山脈は海中だ。つまり、まだその後にその上に堆積は続いたということだ。
そうして、ついにリグリア-ピエモンテ海の海洋プレートが完全に潜り込み、いよいよアフリカ大陸の大陸プレートがヨーロッパ大陸のプレートに潜り込みを始める。アフリカ大陸の地殻上部が上記の海洋堆積岩のさらに下に潜り込むのだ。と同時に前述と同じような削り取りと山積みが行われる。本格的な造山運動の開始だ。こうしてユーラシア・アフリカ大陸の西側(今で言うフランス-スペイン方面にあたる位置)に、アペニン山脈の原型となる山脈が隆起し始めた。
大陸プレート同士の摩擦による造山活動は、その部分の局地的温度上昇を招き、山の裏側の部分の地殻を再び膨張させ、亀裂を入れ始める。亀裂は増幅し、そこにまた海水が浸入するのだ。こうして、約2千万年から1千5百万年前、今で言うフランス-スペイン方面の大陸から現在のサルディニア島-コルシカ島およびイタリア半島本体の原型である山脈状の地塊が分離し、バレアーレス海が誕生した。山脈状の地塊がフランス-スペイン方面の大陸から千切れ、今のアルバニア・ギリシア方面に向かって移動を開始し、その裏側に海が開けていったというわけだ。
約8百万年前、今度はサルディニア島-コルシカ島の原型である地塊に南北軸に同じような亀裂が生じ、イタリア半島がこれから分離し始める。こうしてティレニア海が誕生。イタリア半島は徐々に東へ押されてティレニア海が幅を増す。ただし、イタリア半島の移動は北では大陸との接点を残しているので、この接点を軸にして反時計周りの回転運動となる。イタリア半島が反時計周りに回転してアルバニアに近づくということだ。この回転運動は今でも進行中だ。このような亀裂と地殻の膨張によってマグマが地表まで湧き出やすくなるため、イタリア全土、特に南で火山活動が盛んなのだ。
さて、イタリアの山岳地図を見ると分かるように、アペニン山脈は南北に走る棒状山脈ではない。それは、リグリア(ジェノヴァの背後)からローマの南のアンツィオという町の辺りにかけて一つの孤を描き、そこからさらに別の孤が始まってカラブリア地方のコセンツァという町の北まで一つの孤をなしている。そしてそこから南、さらにシチリアまでアペニン山脈は続くわけだが、その前に地質学的には別種の小孤が一つ挿入されているという。カラブリア地方のいわゆる「土踏まず」最前方から「つま先」を経て、シチリアのタオルミーナ背後に横たわるペロリターニ山地に向かっての一連の孤―カラブロ・ペロリターノの孤という―だ。これには色々な説があるようだが、最近では、イベリア半島の地塊の破片が断層の作用でここまではるばる運ばれてきたのではないか、という説もあるようだ。アペニン山脈の隆起は、最初リグリア-ピエモンテ海の海洋プレートがヨーロッパ大陸プレートに潜り込み、やがてアフリカ大陸プレートがヨーロッパ大陸へ潜り込みをしたことによって起こったわけだが、潜り込みは海溝の軸に対して垂直にではなく斜めに起こるためにこのような孤を描くことになるらしい。
約7百万年から5百万年前、地中海がいくつかの塩の湖に分割されて大部分が干上がるという大事件が起こる。これには大きく分けて二つの要因が考えられている。一つは、温度の上昇による海水の蒸発。二つ目は、塩分の低い大西洋との水の交換が減ってしまったこと。「塩の危機」と呼ばれる大事件だ。百万年もの間続いたこの塩の危機の期間中、地中海全域で蒸発岩(石灰岩、無水石膏、塩岩、など)が形成された。現在、シチリア、マルケ、ロマーニャ地方で特によく見られる岩種だ。
約5百万年前、地中海に水が再び戻ってきた。近年の研究で、蒸発岩の地層の上に直接陸からの土砂堆積の層が形成されていることが明らかになり、この地中海への水の帰還はかなり急速度であったであろうことが推測される。ジブラルタル海峡が今よりももっと広く開いた時期があり、この時期に大西洋から海水が流入したと考えられる。
現在でも特に地中海東部において塩分は上昇中らしい。塩分を減少させる要素としては、塩分の低い黒海との水の交換、ナイル川からの淡水の補給などがあるが、黒海やナイル川周辺の人的介入(河川工事や潅漑事業)によってそれらからの水の供給量は減っている。塩分の低い大西洋との水の交換も、蒸散による塩分の高濃度化を打ち消すほどのものではないらしい。ジブラルタル海峡はそれほどに狭いのだ。
なお、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の接近は現在でも進行中。年に3cmのスピードらしい。これによって地中海は縮小する傾向にある。またこの二つの大陸塊の接近に伴って時折地震が発生する。
地学的未来の時間において、ヨーロッパとアフリカは再び合体し、地中海はいくつかの塩の湖になってとりあえず消滅する、というのが地学者達の一致した見方だ。
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初めまして、よろしくお願いいたします。
とても詳しいアルプス、アペニンの形成過程の説明に敬服いたしました。
ただ残念なことに古地理図などがないため、より正確な理解ができません。
出来ましたら、元になった文献などの情報を、イタリアの地の形成(2)としてお教え頂きたいのです。
当方もイタリアの形成に関してはネットで過去に調べたことがあるのですが、これほど詳しい内容は読んだことがありません、どうかよろしくお願いいたします。
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お問い合わせありがとうございます。
この記事は10年以上も前、イタリアに在住のころ書いたもので、イタリアの地質学の本を参照しながら私なりにまとめて書いたものです。しかし、今その本が手元になく、書名も覚えていません。そのとき、参考文献として注記するべきであったのですが、うっかりそれをしませんでした。これは大きなミスでした。すみません。
もし万が一この文献が見つかることがあれば、お伝えします。
この記事は10年以上も前、イタリアに在住のころ書いたもので、イタリアの地質学の本を参照しながら私なりにまとめて書いたものです。しかし、今その本が手元になく、書名も覚えていません。そのとき、参考文献として注記するべきであったのですが、うっかりそれをしませんでした。これは大きなミスでした。すみません。
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2017-08-20 日 17:09:56 |
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sachimine
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