投稿日:2006-09-30 Sat
私が会員として所属するイタリア・ランドスケープアーキテクト協会(Associazione Italiana di Architettura del Paesaggio、略称AIAPP)のローマ支部で、日本庭園について講演した。約一時間半の講演だ。これまでは、講演するたびに、読むための原稿を用意してきたが、今回は初めて原稿なしでパワーポイントだけのプレゼンテーションを試みた。結果は良好。日本庭園が大自然を象徴するその力に聴衆のローマのランドスケープアーキテクトたちは関心していた。さらに日本庭園の精神性の高さ―。
ある聴衆の女性(建築家・ランドスケープ専門)の話では、イタリアでは庭にまつわる精神性を帯びた文化というものが既に失われてしまっているらしい。この場合「文化」というのは、これまでイタリアの長い文化史においてその都度新しい文化を生成し、連綿と受け継いできた一部のエリート達(貴族達と貴族に抱えられたアーチスト達)の文化のことではなくて(それはイタリアでは日本以上に存在するともいえる)、所謂一般の大衆がごく日常のものとして共有する「文化」のことだと彼女は言う。つまり、日本の庭園文化が素晴らしいのは、そこに見られる「日常性」と「日常化した精神性」ということだ。これは、重森三玲氏がいつも批判していたところの「江戸時代の庭園文化の堕落」とは相反し、実は江戸時代にこそ庭園文化は深く日本人の平民の日常生活に浸透していったのであって、その他あらゆる文化の大衆文化の発展とあわせて、江戸時代の産物といえるのかもしれない。現に、茶庭が京都の町屋へ流入し、全国津々浦々で、大名たちの庭園に限らずあらゆる小さな庭園に茶庭の要素が採用されていったのはこの時代なのだ。
その日常的精神的庭園文化の欠如をいかにして産み出すか、それをイタリアの庭園・ランドスケープ関係者は心を痛めながら考えている。では過去には精神的庭園文化があったのか?例えば、庭園が宇宙の仕組み(すなわち大自然)を反映し映し出す鏡であるというような禅の枯山水にも近似した考え方は、実はパドヴァの植物園の庭園などに見出される。そこでは宇宙的方角、身体、医(薬草)、秘数学などといった概念が庭の平面構成(地割)や植物の配置の中に仕組まれている。つまり、確かにパドヴァ大学付属植物園は「平民」のものでは決してなく、あくまでも精神的エリート集団の設計・所有・管理するものではあったが、イタリアでも大自然を照らし出すような深い精神性をもとに庭園を造ることは、中世からルネッサンスまでの時代においては特別なことではなかったのではないかと思われる。
今回の発表は、現在執筆中の本の原稿をベースに行ったが、時間的制約もあり、主に日本庭園の簡単な歴史を4+1の様式をもとに紹介した。つまり、寝殿造様式の庭園、浄土式庭園、枯山水、茶庭、そして池泉回遊式庭園(大名庭園)。そして、20世紀に伝統と革新をテーマして作庭に挑んだ作庭家として重森三玲、村野藤吾、イサム・ノグチの三人の作品を紹介。そして近年の日本の作庭家・ランドスケープデザイナーのいくつかの作品も紹介した。聴衆はメモを取りながら極めて真剣に私のプレゼンテーションを聴いてくれた。
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アーキテクトアーキテクト()には以下の意味がある。* 建築家なお、建築家の職分の中でもマスターアーキテクト、エンジニアアーキテクト、ランドスケープアーキテクト、のような用例は、そのままカタカナ表記で使用している。 情報技術|IT業界において、ソフトウェア工学に熟 2007-08-07 Tue 15:56:47 | 建築って何?
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