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  S A C H I M I N E

Author:  S A C H I M I N E
世界の庭を見渡して考えたい―ほんとうにいい庭ってどんな庭?お客さまのよりよい暮らしに貢献する庭づくりをめざして、日本とイタリアの長~い歴史と深~い文化と豊か~な自然をインスピレーションの泉とします!。。。でも現実は暑さ寒さ虫と戦う植木屋の毎日でございます― (っ^-^)っ゙
ホームページはこちら:www.sachimine.com

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レデントーレのお祭りの日―ヴェネツィア
街へくりだした。サンタ・ルチア駅からまずカナレジョ方面へ進み、入り組んだ道をどんどん迷うままに進んでみた。サンタ・アポストリの近くまで来て大変にお腹がすいたので、近くにレストランを探してみた。幸い美味しそうなものが見つかった。そとで、イタリア人の男二人組みがしんみりとテーブルを這うような声音で会話をしながら食事をしている。彼らが食べているペーシェ・スパーダが目に付いた。隣に席をとったので、彼らに美味しいですか、とたずねるととても美味しいという。そこで私も同じペーシェ・スパーダを注文した。カー・ラルガ・デル・プロヴェルビという静かで人通りのほとんどない小さな通りにある小さなレストランだった。申し分なく美味しかった。偶然見つけた幸いだ。


そのあと、アーセナルへ向けて東に進んだ。サンタ・マリア・フォルモーザの近くでアイスクリーム屋のショーに魅かれて思わず立ち食いし、歩を進めた。アーセナルのレンガの壁に行き当たったが、入り口は守衛官が厳しい顔をして警戒している。どうやらアーセナルのこの部分は海軍の演習所または詰所になっているようで、入場することはできないようだ。壁伝いに南下してみたが、ダンスのビエンナーレの広告が貼ってあるのみで、いくつかある扉はすべて閉鎖して人気もまばらだ。祭り中にしかこの中へは入れないのだろう。

アーセナルを南に下りカナーレ・サン・マルコへ出た。運河沿いが意気揚々とした活気を見せているのは今夜がレデントーレの祭りだからだろう。人ごみを交わしながらサン・マルコへ向かって太鼓橋を6つ渡る。そうするとさらなる人ごみに遭遇し、柱を2本左手に仰ぎながら右折する。サン・マルコ広場だ。何度見ても感嘆に尽きない。アーケードをたいそうな人が埋めているが、広場の真ん中は適当に人の数がまばらだ。広場が人を包み込むが、人は広場に飲まれていない。この空間に人は親近感とやすらぎと畏敬の念を同時に抱き、演劇の主人公になるような恍惚さえ感じるのだ。人類がこんな大変な――地理的には困難な――場所にこれほどのものを作りえたと思うと身が引き締まる。しばらく逍遥したあと、広場の西の端のアーケードから外へ出た。そこは極端に対照的な狭い商店街であり、あの大空間はいったいなんだったのだろう、と背中が後ろへ向かって詮索し始める。

午後も遅い時間帯になった。ふとたちよったエノテカ(洋酒屋)で今夜レデントーレのお祭りのフェスタに持参するための赤ワインを買うことにした。先に来ていたお客が用を済ますと、若い主人に向かって少し声の調子を変えて話しかけてみた。(こういうときとっさに声の調子を変えてしまうのは、私も相当ヨーロッパ人化したとみえる。)
「今日はレデントーレの祭りでしょ?現地ヴェネツィア人の主催するフェスタに招かれているんだけど、どんなワインをもっていったら彼らに喜んでもらえるでしょう?」
若主人は親切そうな笑みを浮かべて棚を見渡し始めた。
「どのくらい?」
「だいたい15ユーロから20ユーロ。それより高くても、もしお勧めというのがあれば考えます。」
彼は2種類提案してくれた。そのうちの一つを選んだ。
「ところでこれは花火に合うワインでしょうね?」
「もちろん。」

今夜のフェスタはザッテレの対岸、ジュデッカの護岸でやるらしい。レデントーレのお祭りでは運河に花火が上がるとは聞いているが、私は今夜大学関係者有志によって催されるフェスタがどんなものなのか、誰かのお宅に伺うのかそれとも野外で飲み食いするのかちっとも想像がつかず、ただパオロたちに従うだけだった。ザッテレの船着場近くの飲み屋でまずアペリティヴォを飲んで気勢をつけた。最初は私とパオロとクリスティーナだけであったが、やがて建築大学の29のワークショップ(私もそのうちの一つ、パオロ・ブルギが受け持つワークショップの助手をした)に参加している先生たちが何人かやってきた。皆ナイロン袋に何か食べ物や飲み物をもってきている。しかも皆カジュアルな服装だ。それで初めて予想がついた。今夜のフェスタはパーベキュー形式の気さくな、多分野外のフェスタなのだろう。

45分くらいアペリティーヴォをお代わりしながら雑談したあと、船着場に移動してヴァポレットに乗って運河を横断した。カナーレ・デッラ・ジュデッカと呼ばれる幅約300メートルの運河だ。運河に西陽が差し込んで、その光線が祭りの盛り上がりをポジ・フィルムの鮮明さで浮かび上がらしている。対岸へ到着すると人々がパーティの準備でせわしく動き回っている。護岸に沿って何百メートルか歩いた。運河に面して長テーブルを設置しているものの中には、「予約済み」と書いて陣取りを済ませているグループもある。我々のグループも護岸が芝生で幅広くなった辺りに長テーブルを設置済みで、場所取りも既に周到になされている。花火を見て、食べるぞ、飲むぞ、という気迫が伝わってくるようだ。まだ西の空には沈みかけた陽が残っており、ちょうどジュデッカの護岸に対して平行にまっすぐに低く温かい光線が届いている。水は穏やかで、遠く東の方向にサン・マルコ周辺に西陽を受けて船が盛んに行き来するのが見える。

パーティの場所取りをしたあたりから数十メートル離れたところに、このパーティを中心になって企画した人の設計事務所があり、そこに祭りの肴がすでに準備されているらしい。男連中でそれを取りにいった。プラスチックのコップ、皿、フォーク、提灯まで準備してある。料理も何種類も準備してあり、あとは時を見計らって持ち出すのみ、という具合だ。私の田舎では、3月下旬から4月上旬の花見を村の総出で公民館の前の広場にあった桜の木の下でやっていたが、あのときは公民館が食糧の基地となっていた。それと似たような段取りだ。

パーティは始まりの合図があるわけでもなく誰かが来るのを待つでもなく、腹がへってきた女性たちがとっととテーブルの上に準備された料理をつつき始めたのをきっかけに――なぜこういうときは女性がまずサラリと食べ始めてしまうのだろう?――なんとなくテープが切られたのである。そうすると男たちもテーブルに着き始め、ワインのコルクが抜かれ、準備された中でもとりわけ美味しい大皿がテーブル中を巡回し始める。あとは食べるだけだ。いつの間にか、長テーブルが埋まるほどのパーティ参加者だ。ほとんどは建築大学のワークショップ関係者らしい。食べる、食べる。飲む、飲む。いつの間にか辺りが暗い。提灯の光がほんのりと運河にこぼれている。

最初の花火が上がった。このとき皆は初めて自分がお腹いっぱいだと気がついた。そのときには、チョコレートや甘いクリームのお菓子がすでにテーブルを巡回していた――。最初の数発は、華々しく打ちあがった。ヴェネチアの夜空と黒い水面を二重に彩る素敵な花だ。ところが――。最初に上がった数発の残した煙が運河を徐々に覆い始めたのだ。続く数発がまた一層煙を濃くしていく。数分のうちに霞がジュデッカ運河を西に進み、つまり我々の陣取ったほうに移動し始め、花火の打ち上げ地であるサン・マルコの沖から我々のいるジュデッカの西の端まで運河上空を煙が覆ってしまった。そのあとは悲惨だった。花火の音だけが聞こえ、たまに光が見えても、中心が真っ黒のひどく汚い花の花びらだけ何枚か見えるといった始末だ。護岸で十分酔いをまわらせた観衆がどよめき始めた。
「すべてベルルスコーニのせいだ!」
どこかで若僧が叫んだ。不満のどよめきが大爆笑に変わった。

結局、それから花火はきらびやかな花弁を見せることはなかった。10年間レデントーレの祭りを眺めてきたある者は、こんなことはこれまで起こったことがない、といって嘆き、どうしても納得いかないといって地団駄を踏んだ。私には祭りのこのオチがまたイタリアっぽくて実にかわいいとさえ思われた。

11時を過ぎた頃、パーティは解散となった。後片付けを終えてから、男4、5人でレデントーレの橋を渡って本島に帰ろうという話になった。レデントーレの橋とは、パラディオが設計したレデントーレ教会の前から対岸のザッテレに向かって祭りのために運河を横断する形で仮設される歩道橋のことだ。支柱が浮きで支えられた構造で、真ん中の部分だけ船が下を通過できるように長い支柱でもって路面を盛り上げている。半ばまできたとき振り返って照明で照らされたレデントーレ教会のファサードを眺めてみたが、ザッテレの護岸から眺めたときよりずっと大きく堂々と見えるそのファサードはとても美しかった。晴とケが生活のリズムを作るとすればこんな設えこそ晴れの機会にふさわしい。後日、初期の葛飾北斎(当時の名は勝春朗)の版画「浮絵両国橋夕涼花火見物之図」(1788-1789頃)に出くわしたが、橋、運河、船、人込などのテーマはまるでレデントーレの祭りを見ているようだ。
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| 08:06:41 | Trackback(0) | Comments(0)
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