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  S A C H I M I N E

Author:  S A C H I M I N E
世界の庭を見渡して考えたい―ほんとうにいい庭ってどんな庭?お客さまのよりよい暮らしに貢献する庭づくりをめざして、日本とイタリアの長~い歴史と深~い文化と豊か~な自然をインスピレーションの泉とします!。。。でも現実は暑さ寒さ虫と戦う植木屋の毎日でございます― (っ^-^)っ゙
ホームページはこちら:www.sachimine.com

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茶とランドスケープデザイン
数ヶ月前からお茶の稽古を始めた。抹茶という緑色粉末は30年間飲み続けてきたが、茶道というものに出逢うのはこれが始めてだ。30年間飲み続けてきたのは、ちょうど昨年の今頃亡くなった祖母が毎日のように飲んでいたからだ。彼女は裏千家の茶道を修めていたようだが、家で私が彼女のお茶のお供をするときには作法がどうのこうのとほとんど言わなかった。偶に「本当はそんな風にはせんだーで(そんな風にはしないのよ、の方言)」ともらしていたが。彼女はとにかくお茶という緑色粉末が好きだったのだろう。そして我々孫達とお茶を飲むのが至福の時間だったのかもしれない。だから作法抜きでも全然構わなかったのだろう。その彼女がホスピスで最期を迎えるちょうど二ヶ月ほど前に、私は帰国帰省した折にホスピス病棟に彼女を訪ね、クラシック音楽の流れる喫茶室で彼女に最後の抹茶を点ててあげた―。これが最後だろう、と分かっていた。しかし最後だからといって別に何の変哲もない。いつものように作法なき茶を二人で愉しんだ―。


お茶を始めてみたいという思いはなんとなくそれ以来強まっていたのかもしれない。祖母がそれほどまで愛した喫茶、しかし一回も手ほどきしてくれなかった茶道というものを知りたい、という思い。しかし思いだけでは始まらない。直接のきっかけとなったのは、ローマの日本文化会館で催された俳句のシンポジウムの通訳のお手伝いをしたことだ。そのときシンポジウムの司会兼通訳をやっていらっしゃったのが今の私の茶道の先生だ。その全身から溢れる貫禄と知性とに魅了された。それから3ヶ月ほどして「入門」した。

しかし、それと同時にもうひとつ茶道を始めてみたいという理由があった。それは、日本庭園の勉強をしているうちに茶道を知識でなく体験として学ぶ必要をひしひしと感じ始めたのだ。日本庭園には「茶庭」というジャンルが存在する。それは、寝殿造りの庭園、浄土式庭園、枯山水、池泉回遊式庭園などとは発想を異にする庭である。ひとえに機能が美として結晶してしまった庭。しかも、今日一般的に日本庭園に必須のものとさえ思われている庭の基本的な工作物、例えば飛石、つくばい、石燈籠を生活と密着した庭に最初に持ち込んだのが茶庭だ。そしてさらに、茶道は現在日本的と言われる様々な機能美の表現形式(広義の「デザイン」)をもっとも一般的な大衆のレベルにまで広め定着させてしまったという功績をもっている。だから茶道を学ぶことは日本の機能美の本質に近づくことだろうし、茶道が必要とした庭の形態について知ることは茶道の思想的背景に迫ることに役立つであろうし、また日本庭園の一つの到達点について洞察を深めることが出来るに違いない、そう考えた。

そして色々と茶道について勉強し、実際に作法を習い、先生の言動を観察し、と回を重ねているうちに、雑感が収斂してある種の確信を持つにいたった。お茶の本質はコミュニケーションにある、というものだ。一期一会とは本当によくいったものだ。それは「いまこのとき」ということであり、インプロヴィゼーションということでもある。つまり禅と通じ、音楽と通じる。コミュニケーションの最も基本となるところはなんですか、と問えば、我が先生は「こころが開かれていることです」と答えられるに違いない(実際著作の中でそうおっしゃっている)。こころが開かれている。それはやさしい表現であって、奥深いことこの上ない。それは空間についての言及であって時間についての言及でもある。こころが開かれていればいまこのときという刻一刻がひしひしと実感せられ、どんな突然の変異に対しても自由自在なインプロヴィゼーションが可能である。突然の変異とは作法外の事態ということではなく、お客(もてなされる側)と自分(もてなす側)との刻一刻の交流のことに他ならない。時間を最大限に微分すれば、どんな刻一刻の所作も突然の異変だ。なぜならそこには自分だけがいるのではなく、お客(他人)がいるからだ。自分というものの生命活動がかけがえがなく、お客(他人)というもののそれもかけがえがないのだから、その両方によってそこで生じる関係がかけがえがない(まさに一期一会)のは当然ともいえる。その突然の異変のつながりをどうやって最もお互いにとって快い心の交流の場に演出できるか―。それが茶道の目指すところではないか、と思う。

音楽と通じるいったが、そんな音楽観を私に植え付けたのはチェコ人のギターリスト/作曲家、ステファン・ラックだ。つまり、音楽の本質もまたコミュニケーションである、ということ。彼が自作『ヒロシマ』を演奏するのを始めて生で聞いたとき、彼のこの曲とその演奏に込めたメッセージについて同じようなことを考えた。(彼は原爆投下の同じ頃にこの世に生まれたらしい。)つまり、彼が『ヒロシマ』で表現したかったことは、戦争が悪いとか原爆が悪だとかいうものではなく、「なぜ我々は心が開かれないのか。どうやったら我々は心を開くことができるのか。どうやったら真に開かれたコミュニケーションができるのか」という人間の大問題についてではないか、とそのとき考えた。それは私にとって音楽の核心に触れたという確信を与えた。後日面会したときに彼にこのことを直接聞いたら「You got it.」といってくれた。彼が私に音楽というものが心のコミュニケーションであるということを最初に実感させた人だ。それからというもの、音楽の上手下手について考えが改まった。

では、茶道を修練することがランドスケープデザインというものに対してどう関係するのか?それは茶庭について知るということをはるかに超えた意味があると私は見ている。つまり、茶の本質をコミュニケーションだと捉えれば、そのコミュニケーションという点こそがランドスケープデザインに活かされるのではないかと思うのだ。それはデザインプロセスにおける場所との一期一会であり、施主との一期一会である。そして何よりも利用する人々が真に開かれたこころを自然に持ってしまえるような場所(ランドスケープ)を作り出すということにおいてである。作られたランドスケープを介して発生する人間同士また人間と自然とのコミュニケーションの質の向上を問う。そのようなランドスケープがどうやって生れ得るのか、またどうやってデザインできるのかを模索することが茶道から得られる示唆をランドスケープデザインに活かす上での私の課題だ。
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茶道 | 07:18:46 | Trackback(1) | Comments(0)
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ブログ祭り!!
ブログの更新お疲れさまです。今回は今もっとも注目されているブログのご紹介です。ブログの女王達が書き綴る究極の日記!必見ですよ。 2005-12-23 Fri 07:27:03 | ブログアクセスランキング

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